美しさのオブラートで包まれた心の影

■核はブラックホール

美しい思い出も、中心部に重く暗い物が鎮座している場合があります
そのような思い出は、美しさのオブラートでしっかりと包んで閉じ込めておかなければなりません
オブラートが破損すれば、ブラックホールへ吸い込まれてしまいます

■父の交通事故死■

父は、私が小学5年生の2月の寒い夜に38歳で交通事故にて亡くなりました
電車は、1時間に1本の片田舎と言えども、地方新聞の紙面に大きく取り上げられるような事故でした

共に飲酒をしていた知人の運転する車に同乗し、自損事故

日本において飲酒運転が法律上明文で禁止されたのは、1960年の道路交通法改正
法規の施行や時代背景を勘案したとて、飲酒運転を承知で同乗したのですから、父は自業自得です

過度な飲酒で社内は「ウェーイ!」って状態だったのだと思います
父が助手席に乗るその車は、スピードを出し過ぎてハンドルが切れずに、助手席側は電柱が折れるほどの力で激突
車は何回か横転した後に停車

父は即死でした
助手席の父と、後部座席の同乗者1名は死亡、運転手は重症

父の死亡後に解ったこと
運転手は、運転免許停止中であったこと
車は車検が切れていて、任意の損害保険はもちろんのこと、自賠責も無効
「無い袖は振れない」運転手側への金銭要求は、したとて無駄
亡くなった父の借金が発覚

絵に描いたダメ要素がみごとに合わさっていました

父は、そういう人を知人に持ち付き合いをしている、そんな人でした

私が記憶する限り、父母は共に食卓を囲めば、毎回、夫婦喧嘩
姉は、夫婦喧嘩が始まるとともに奥の自室に鍵をかけて籠ってしまいます
私は、常に、夫婦喧嘩の仲裁に入っていました
1人で必死に頑張っていました

いつしか、父が酔って暴れるようになり、それは年々増えてきていました

事故の日

既に22時を過ぎていました
私がトイレに立つと、出掛けようとする父と遭遇
「ちょっと、出掛けてくる」
「いってらっしゃい」

これが最後でした

その頃の父はもう、家の物も壊し、母に手を挙げ、止めに入る私にまで及ぶこともあり、翌日に、私への被害をひたすら謝罪するという感じでした

子供ですから、母の言葉による暴力よりも、父の力による暴力の方に嫌悪し、私の父への愛情は懐疑的というか、ぎこちないものになっていました
でも、母の父に対する暴言は「聞くに堪えない」レベルの、人の尊厳にまで寝食する発言でした

外出から帰宅した父は、棺桶の中で全身が包帯で巻かれている状態でした
事故で損傷が激しかったのは、火葬時の骨の状態でも解りましたが、遺体が父であると思えたのは唯一見えていた、喉ぼとけの黒子だけ

まだ、父が酔っても暴れるようなことがなかった頃
父はよく夜に私の部屋を訪れて
「アイス買ってあげるから、ちょっとドライブしよう」と誘ってきました
私は、父のことが好きだったので、よほどの事がない限り、そのドライブに付き合っていました

まだ、コンビニが出来始めた頃の話です
コンビニに寄り、コーンのアイスを買ってもらい父とドライブをしました

何を話したかなど覚えていません
ひたすら、学校での出来事や、放課後の同級生との事を父に話していたのだと思います

棺桶の中の全身包帯の父よりも記憶に残っていること
それは、遺品でもある、父が事故の時に身に着けていた着衣
警察から返却されたそれは、水色のビニール袋に入っていました
真冬だったので、父は厚手のコートを身に着けて出かけていきました
父が亡くなった時、その着衣が吸収出来ない程の出血量だったのかもしれません
水色のビニールだったので、底にたまった血だまりの部分は、血液の赤と合わさり紫色に見えました

そして、非常に重かった

人の死に方に良いも悪いもないのだと思います

ただ、父はこんなボロボロで死ぬような悪い人ではないと私は思っていました
それは、40年以上経った今でも変わりません

家族の中で、存命だった父と最後に言葉を交わしたのは私でした

私は自分を責めたというより、家族をまとめるために私はいなくてはならないと思ってしまいました

母や姉から理不尽なことをされても、これは私が蒔いた種なのだとも思っていました

また、それでもあまりに辛いと、亡くなった父を恨んだりもしました

父が亡くなってから、私は、あの夜私が父の外出を引き留めていたらという気持ちが、父の亡くなった年齢に私自身がなるまでは続きました

なぜなのか解りませんが、むしろ、私自身が社会に出て様々な経験をし、父の亡くなった38歳という年齢に近付くほどにその気持ちは強くなりました

丁度、離婚前後の年齢がその頃に当たり、比較的お酒が飲めてしまう私は、色々な所で遊興をしました

クラブ、ホストクラブ、新宿二丁目、更に、売り専を利用したこともありました
痛飲により、特に夫には多大な迷惑を掛けてしまいました

■私の有責による離婚■

夫との離婚の直接的な決定打は、私側の有責です

不貞行為ではありません

金銭的なことです

更にその布石となったのは、私の痛飲によるもの
痛飲の要因は複数のことが絡み合っていました
従前から継続する毒母と毒姉のこと
仕事のストレス
そもそもの、私達二人のこと

私達は、3年程の交際の後に1年の同棲を経て結婚しました

同棲をしてから、ポツポツと問題が顕在化してくる
そんなことは、どこにでもある事だとは思います

そこから結婚をするのですが、結婚2年目に突入と同時期に、母との同居が開始

それは、決して断じて私の望むことではありませんでした
当然、母にも姉にもその意は伝え続けました
ですが、結果として同居となりました

今思えば、私達夫婦は結婚1年目で既に、刃こぼれはしていたのです
もしかしたら、既に刃こぼれではなく、破綻していたのかもしれません

にもかかわらず、母との同居も含め、緑の紙様の条件への実績作りを着実に自らしてしまいました

私は、仕事のストレスが大きな原因となり、心療内科より薬の処方を受けていました

しかし、人の身体は順応してしまうので、薬の効果も服薬当初を維持することはなく、かつ、処方される量は限っているので、服薬すれば手元の薬は減っていきます

そこで「不安」に苛まれてしまうんですよね

薬の効き目は弱くなる、更に、手元の薬はなくなっていく
だけれど、職場のストレス元凶は変わらない
かつ、夫と母や姉からは「甘え」だと言われてしまう

すると、一瞬でも良いから、逃げたい
その気持ちでいっぱいになってしまい、飲酒をしてしまう
もともと、心療内科の薬によって精神が弛緩しているので、飲酒量のコントロールが効かなくなる

1度、共に飲酒をしていた人達と口論となり、最寄りの交番で留め置きとなり、夫が引き取りに来たことがありました
また、当時住んでいたメゾネットが4棟並ぶ敷地内で、泣きわめき、夫から真冬に頭から冷水を掛けられこともありました

そんなこんなの後に、金銭問題

夫からの離婚の申し出に対して、何も言えませんでした
交際期間を含めて、10年持ちませんでした

私が、夫へ迷惑をかけたのは事実です

夫の事は好きでした
一緒に過ごした間の、多くの楽しい思い出があります
あの頃の彼との時間は、本当に本当に幸せなものでした

私は、自身がしてしまったことを悔やみました

そして、離婚から数年経ってからのこと
冷静に夫のことを考えました
正しくは、離婚から数年後ではなく、離婚から10年後の毒母と毒姉との実質的絶縁から数年後
今から、数年前のことなので、離婚からは15年後くらいですね
夫と共に過ごした期間より長くかかってからの気付き(笑)

そこまでは、ひたすら自分を責め、過去を悔やみ、母と姉を呪い、夫だけは「聖人」(笑)

確かに白黒の有責は私でしたが、同棲時からの「二人の問題」は彼の方に多大な要因があり、なんなら十分「離婚案件夫」だったのだと認識

今は、生き死にすら解らない無縁の方ではあります
ですが、ご本人の名誉と「私の思い出」のために敢えて、書き漏らす方の「書き残し」にして、何があったのかは伏せます

ただね、その夫を選んだのは私っていうね
やっぱり、自己責任乙でもあるんですよね
だから、何があったのか書きたくないっていうのもあります(笑)

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