残すとは「留める」ことと「漏らす」こと

■過去と過去blog■

前の記事で、書き残しは唯一の証と書きましたが

「書き残し」には大きく2つの意味があるようで
1.文章を書いて後の世に残すこと
2.書くべきことの全体の一部を書かないこと、書き漏らす
ということなので、blogには書かかず、いわゆる墓場まで持っていくこともあります

事象だけで考えれば、100家庭あれば100通りの「機能不全」「毒」家庭です

でも、根本は全て一緒だと思います

別に、毒親・毒家族やモラハラ関連と
それが大きな要因となり被害者の抱える「生き辛さ」「精神疾患」「障碍」などについて説明する、専門家やコーチングやカウンセリングのblogやYouTube全体を批判するつもりはありません

でも、自身のことを分析したとて、無かったことにリセットは出来ないんですよ
「判明した」というのは「答えが出た」ということではないんですよね

私の過去に起きた事象と綴ったblogは既にインターネットの中に存在しています
なので、それの焼き直しをした改訂版を今回のblogに綴るつもりはありません

■理解できないということを理解してさえくれれば救われるのに■

ですが「二次被害」の覚悟については触れて、被害者に寄り添えられたらと思います
私も、直接的な加害者以外の多くの第三者にもたくさん傷付けられました
調停という制度(裁判官・相手方代理人・調停員)、公的機関の女性問題・家庭問題相談窓口、毒親が通院していた心療内科のカウンセラー、毒姉の配偶者、信頼出来ると思っていた周囲の人々

ただ「傷付けられて辛かったです」という切り口でなく、むしろそのように感情的になり心が乱れ、飲み込まれて埋没して沈んだまま身動きが取れなくなってしまわないよう、冷静になれる物を綴れればと思っています

二次被害」は「被害者の覚悟」など軽く超えた、斜め上からのものばかりです
ですがそれは、もしかすると被害者が「きっと解ってくれる人がいて、寄り添ってくれるに違いない」と期待をして第三者と対峙するからかもしれません

残念ながら期待は一切排除した方が良いと思います

それが「機能不全家庭における毒」です
他者からは理解されないんです
さらに、他者は「理解出来ないということすら理解出来ない」
だから、斜め上から傷付ける