「許し」は「努力」や「苦痛」ではなく「救い」でなくてはならない

■有益な生産とは?■

「復讐や、人を恨んでも何も生まない」
と生産性のことを言う人がいます

その生産性ってどの視点で言っているんでしょうか?

貸借でも「正の資産」と「負の資産」が存在して、表裏一体でバランスを取っています

必ずしも、正の資産だけが有益な生産ではないはず
負の資産を生み出す過程に有益なものがあれば、何も生まないとは言えないと思います

韓国映画「オールド・ボーイ」の中のセリフ
「復讐は健康に良いぞ
退屈しないし、寂しくない
だが、やり遂げた後、忘れていた苦痛がやってくる」

実質的な絶縁は「逃避行動」なので復讐とはとても言えません
ただ、私が手段として「家事調停」を申立て、陳述書を作成したことはささやかな復讐です

毒母と毒姉から自宅の鍵を返却してもらうまでは、肉体的にも精神的にも辛かった
にもかかわらず「気力」はみなぎっていましたし、充実もしていました

長きに渡り奪い取られていた私の自尊心を、私の手元へ取り戻すことが出来る

結果、取り戻せた自尊心はそれまでの加害によってボロボロで、リハビリは10年を経年した今でも続いています

加害が40年超でしたから、これは、私が死ぬまで続くリハビリだと思っています

でもあの時「家事調停」を申立てて、モラハラ加害者の毒家族と絶縁しなければ、私の自尊心は今も加害者に好き勝手にされていました

「留まるも地獄、進むも地獄」

私は、進む地獄の選択をした訳で、進むには「復讐」は不可欠でした

■「許せない」という気持ちを「許す」こと■

著名人、説法を説く宗教関係者、メンタル系界隈の専門家等
どの人も「人を許すことで、自分が楽になり成長できる」と言います

そして、私は、その言葉に長く悩まされ続け、自分を責めた

「許せない自分は、人としてダメなのだろうか?」

今でも、この疑問と自責は皆無になることはなく、心と頭の片隅にあります
何等か、人間関係での不具合が生じる度に「私に問題がある」と必ず思ってしまいます

私は、必死に「毒母」と「毒姉」のことを許そうと「努力」をしました
それは「苦痛」でしかなく、更に私を苦しめるだけの行為でした

ある時、10年来の知人へ具体的な内容は伝えず抽象的に
「許せないことがあっても、何が何でも許さないと、ダメなのだろうか?」
「許せない私は、ダメ人間なのだろうか?そんな人間だから、許せないようなことをされるのだろうか?」
とメールをしました

その時の返信は
「どうしても許せないのならば、その許せないという気持ちを許せばよい」
とのことでした

実は、本人はそんなメールを送ったことを忘れてしまっているのですが、確かに、私はその言葉に救われた
また、その言葉を拠り所に今もこうしてblogを綴っています

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