「優しい」と「馬鹿」は同意語

■キ○ガイに優しいを教育させてはいけない■

今でもよく仕事においても私的においても他者から「優しいね」と言われます
昔は、そう言われるのがとても嬉しかったんですよね

子供の頃から毒母にも「あんたは本当に優しい子だね」と言われてきました

他者からの評価を一切気にしないという人は稀有だと思います

子が一番最初に接する自分以外の人は家族です
家族の中でも立場の優位性では、兄弟姉妹よりも親の方が上位でしょう

そうなると子は、やはり親から良い評価を得たいと思ってしまうのは自然なこと

そして「人には優しくしなさい」と言われて育つ人が大多数です

情操教育の時点で「優しい人」という言葉は誉め言葉分類として認知するように刷り込まれるじゃないですか?

だからね、母に言われると嬉しかったんですよね、とっても

でも「優しい≠自己犠牲」ですよね

これを、正しく説くことのできる親じゃないと、子は間違った認識のまま育ってしまいます

モラハラ毒親にとっては「優しい=自己犠牲」なんですよ
そうやって、キ○ガイに「人には優しくしなさい」と言われて育ったのが私です

■もう1つの出来事■

私には、以前綴った父の交通事故死と私の有責による離婚との間に忘れられない出来事があります

これだけは他の2つと異なり、今でも想い出すと必ず泣いてしまいます

既にこれをPCで入力していても、涙が止まりません

父の時と同様に、これも「死」が関係します

もう30年程前のことです
中学2年生の頃から飼っていた牡のマルチーズが亡くなりました
10年弱でしたので、まだ平均寿命的には早かったかと思います

私の辛い思春期をずうっと癒してくれていた愛犬でした

正直、全力で無償に愛情を注げてあげていたとは言い切れません
毒母や毒姉とのことで、自分の気持ちに余裕がなかったりすると、犬が近寄ってきても撫でたり遊んだりせず無視をしたことも多々ありました

でも犬のほうは、いつでも私の帰宅を歓び、辛そうにしていると寄り添ってくれていました

飼育の面での是非は別として、私はずうっと犬と一緒に寝ていました
途中短大進学で独り暮らしをしていた期間は別ですが、寝食を共にした愛犬です

もともとあまり丈夫な犬ではありませんでした
よく体調を崩すこともあり、幾度か入院もしたこともあった犬です

最終的な死亡時もマルチーズが罹患しやすいと言われている心臓疾患でした

■昼に決行しても夜逃げ■

私が高校に進学して間もなく母は会社経営を始めました

美大なので、浪人も最初から織り込み済みでもありましたが、姉は、現役での美大受験は失敗しました
そして、東京で独り暮らしをしながら予備校生活を1年送った後に、東京の美大に進学しました

多分、姉の予備校生活時の費用から、今後の姉の学費と、進学予定の私の学費とを考えると、片田舎の零細中小企業の会社員では経済的に厳しいと判断したのでしょう

社会人となり、私自身が株式上場準備や、事業再生・組織再編や、事業立ち上げの企業のサポートに関わってからは、母の会社経営があまりに陳腐だったのが解ります(笑)

それでも、あの当時の、あんなちっさい街での、その決断と行動力は感心はします

まぁ、無計画ゆえのものだったと言えばそれまでですが(笑)

その会社が手形の不渡りを2度出してしまい倒産となってしまいました

金額は非常に少額でしたから不渡り回避の手当も可能でした

でも、むしろ少額だったからこそ、主に資金繰りですが、経営自体の継続を踏ん張る気力が持続できずに切れたのかと思います

その頃、私は既に短大を卒業して就職をしていました
姉は、美大卒業後に1度就職して3年ほど働いた後に、新ためてデザインが学びたいと英国に留学し、その留学を終えて東京で就職し独り暮らしをしていました

母の会社は、2006年の会社法施行前の商法の時に設立した「有限会社」でした
有限会社ですから、良くも悪くも1人なので、万歳したくなったのかと思います

倒産と文字にしてしまえば漢字2文字です

ですが、色々ありますよね当然

その倒産した会社のことは、別な機会に改めて綴りますが、結論、その街から「夜逃げ」をすることになるわけです

決行は昼間でしたが、やっていることは「夜逃げ」(笑)

■犬は解っていたのかもしれない■

その時、私は母と同居をしていました

ですが、それまでの諸々のことがあり、今後、今までと同様には母と共に暮らすことがとてもできそうにないと判断しました

関係性は著しく芳しくなくて、何しろ一緒に居られないと思っていました

そこで家を出ることにしました

それまでも、短大進学で独り暮らしをしていたので、家を出るのは初めてではありませんでした

でも、その時はなぜかその愛犬のマルチーズが私を異常なほどに、執拗に引き留めたんです

障子に鼻で穴を開けて破り、顔を出してきて、必死に止めるのです
そんな行動は初めてでした

なので私は「また、会いにくるからね」などと声をかけ犬を撫でました

今思えば、もしかして、犬はこれが「今生の別れになってしまう」と思っていたのかもしれない

その後1月もせずに、犬は体調を悪くして亡くなりました

■私はいつも自業自得■

亡くなる数日前に、犬が体調を崩して入院をした旨を母から聞いていました
平日で、翌日も仕事があったため土日に帰って病院に行こうと考えていました

するとその連絡からまた数日して母から電話がありました
当時ですから、携帯電話などはなく、会社の電話に母から私宛への電話です
取り次いでもらい、出た時に電話の向こうの母は泣きながら、犬が亡くなったことを伝えてきました

その後、私の様子を見た上司が事情を聞いてきました

その上司は、業務自体はハッキリ言って優秀ではありませんでした
これは自他共に認めていることでした
ですが、何より人の機微などに非常に敏感な人でした
比較的嫌われがちな経理の部下たちが働きやすいように、他部署との連携を取ったり何しろアシストをしてくれる人でした

私は、その日は一旦会社の女子更衣室で小一時間気持ちを落ち着かせ業務に戻り、週末までは出勤を続けました

その間も、またその後も、上司は愛犬の死の事実を気にかけてくれていました

土日の休みに、愛犬の亡骸と対面し、火葬と埋葬を行いました

小型犬ですからもともと小さかったのですが、本当に本当に小さな骨壺の愛犬を埋葬した時は、今現在まで含めて今までで最も悲しかった日でした

また、最後にお世話になった病院へも出向きました

先生の話によると、既に心臓が弱っていて、相当前から、徐々に進行していて、その進行が緩やかだったため家族は気付かなかったのでしょうと
そして、劇的に回復する見込みが厳しかったので、ご自宅のご家族の下へ帰してあげた方がよいと判断して退院・帰宅してもらったと

そこからの母の話では、自宅へ抱いて戻って来たとたんに、それまでグッタリしていたのが急に走り出して、吐血して倒れて亡くなったとのこと

自宅のカーペットに、うっすら残っている犬の吐血跡を見て、私は、父が亡くなった時のことを思い出しました

あの時は、私が出掛ける父を引き留めていれば父が亡くなることはなかったかもしれない

そして今回は、私がこの家を出ていかなければ犬は助かったかもしれない

私が「しなかったこと」「したこと」で、このようなことになるのだと

全て自業自得なのだと
私は、私の「わがまま」を通してはいけないのだと

■修復云々ではなく最初からバラバラ■

この出来事は、更に私をこの「毒母と毒姉」に、私の心を一層縛り付けてしまう要因ともなってしまった

私は、この会社の倒産によって起きた様々なことによりバラバラになった家族をどうにかしなくてはと、2人の毒の間で右往左往し続けることになりました

その選択は全て私の自己犠牲とのセットでした

毒母と毒姉の主張と生活保全のために、私が常に犠牲になる

そしてやっぱり母は私に「あんたは本当に優しい子だね」と言いました

子供の時のような嬉しいとは違いましたが、その母が言うところの「優しい」によって母の心が満たされるのであれば、それが一番よいことだと思っていました

毒母と毒姉の要求を満たすことで家族がまとまっていくのならば、きっと2人にも私の思いは届くはずだから、出来る人がやればよいこと

その「出来る人」を私は自分一人で引き受けてしまった

同じ家族なのだから、思いは届くはずだと

でも、今ならわかるんですよ

私は毒達の機嫌だけをとり、気持ちよくだけさせて、自分の機嫌や気持ちには何もしてあげられていなかったと

そして、結局、何も残らなかったどころか、マイナスだけになってしまったと

思い何て通じないですよ
なぜなら、最初からバラバラで自分のことしか思っていない相手だったのだから
たまたま、1つの単位として家族なだけだったのだから

そして私の優しさなんて、相手からしたら「こいつ、馬鹿だなぁ」と嘲笑と侮蔑の対象
自分のために利用するだけの奴隷だったのだから