忘れられてしまったけれど忘れちゃいけないこと

無頼派が生きられた時代の終焉■

伊集院静氏が11月24日に亡くなった
享年73歳

「最後の無頼派」と言われた人の死だ

別な記事で「清廉じゃなくても潔白でなければならない」と綴っていますが、これは会社経営者に限定のことではなく、著名人全般に当てはまります

巻き込まれる周囲の人のことを、私のような部外者が勝手に余計なお世話的におもんばかると、無頼派を擁護も支持も出来ません(笑)

なので、これは伊集院氏に対する手放しでの憧憬のblogではありません(笑)

生まれ年からは2022年2月5日に54歳で亡くなった西村賢太氏が、最後の無頼派と言われています
でも、西村氏は時代背景的にも、いわゆる「純粋な無頼派」ではなく「派生の分類的無頼派」のような気がします

伊集院氏には無頼派の美学がありました
無頼派などに美学なんてないだろう」
「そんなことで神格化するからクズが許されるんだ」
と批判されそうですね(笑)

物書きが、物書きでいられた時代の最後の世代が伊集院氏の世代

人間なんて所詮俗物なんだと
清廉潔白でなんかでいられるわけないだろうと

堂々と清廉潔白じゃなく、信念を持ち貫いた生き方が出来た時代

そんな最後の世代の人がまた1人逝ってしまった

■常に傍らには美女■

伊集院氏の考え方は、極々古い考え故に時には炎上することもありました
特に「男とは」「女とは」については現代には受け入れられ難いものもあったかと思います

無頼なので飲む・打つ・買うという私生活は批判・非難の対象になるわけですが、常に美女が寄り添い妬みの対象にも(笑)

長きに渡り週刊文春に連載されたエッセイ「大人の流儀」シリーズ
私見ではありますが、これは間違いなく、後世にも色褪せることのない「大人のバイブル」だと思っています

創作性の高い小説とは異なりエッセイは、いわゆる日々のボヤきの積み重ね
リアルな伊集院氏の伝えたい「大人の流儀」は、人々への応援歌でもあります

そしてそれが心に響くのは、伊集院氏の極々古い考え故のもの

今では、忘れられてしまったけれど決して忘れちゃいけない「大人の流儀」
それが綴られています

これじゃぁ、美女にモテる訳だよねぇ(笑)

■常に流行作家でいる生き方■

伊集院氏と同世代の作家の1人が村上龍

執筆以外にも、現在も地上波とインターネットでも活躍中

村上氏は、常に「今」を世の中よりもちょっと先に取り上げていく人

流行を作るわけではないけれど、流行の先取りが上手

時代と非常に柔軟に交わりつつも、決して流されず飲み込まれることがない

時代の変化に合わせて、取り上げる題材は「時代」を象徴するもの
にもかかわらず、作風は迷子にならずにブレずに一貫しています

また、無理に時代に寄せた結果生じてしまう題材と内容のチグハグさによる心地悪さもありません

以前よりはペースは落ちていますが、現在でも、長編小説を執筆し出版されています
そして、地上波とインターネットも(笑)

伊集院氏と村上氏は、全く異なるような世の中や現代とのかかわり方の2人

でも共通しているのは、軸のブレない人

生と死は1対
生を受ければ死を迎える

当たり前のことの繰り返しです

でも、伊集院氏のような軸のブレない人が亡くなっていくのは辛い

■AIは何を伝えてくれるのだろう■

今や物書きはAIに代筆を依頼して自動生成が可能です
膨大なデータの学習結果なので、時には過去データの類似文言が生成されることがあるでしょう

でもそれは、いわゆる作家が他者の作品を模倣するのとは違います

模倣は、もともと作家という一個人の人間の主観で、何らか感情的に動かされ触発された結果の産物
一個人の人間の感性の塊です

でも、AIはデータによる相対的分析結果の産物

心を打つ言葉、展開
全てがAIの選択によって生成されて、もう物書きなんて必要ではない

人は他者に何かを伝えるために、頼って相手にするのが「自分」でも「相手」でもなくなってしまいました

全てAIを通しての意思決定と意志疎通です
そしてAIによって生産された様々なものをAIが評価して、人が受け入れる

人がAI作家の文章を読み、そこに感動したりする
「喜怒哀楽」を実体験で感じるのではなく、AIから学ぶ

それは「生きた」喜怒哀楽なのだろうか?
清廉潔白なAIは、私達の感性に何を訴え、私達の生きる道標として何を伝えてくれるのだろう

AIは、私達に「大人の流儀」を説いてくれるのだろうか?

世界の覇権争いに躍起になってAIこそが善のような盲目的なここ数年の動きは、私には恐怖でしかありません