悲壮感がなきゃダメなんですか?

■時代は「でもしか」先生の頃■

これは、毒母と毒姉の家事調停とは無関係な出来事です

これも今にして思えば、立派なハラスメント発言
その発言によって、毒母に詰められることになったという顛末

私が中学3年生の時の出来事です
15歳の時に言われた言葉を覚えているということは、よほど感動したか、よほど疑義や嫌悪や憤慨のどれかだったんでしょうね(笑)

当時の私の担任は、夫妻で教員でした

地方の小さい街などは、小中学校が隣接していることなどよくあること
なので、夫妻の何れかが小学校教員で、もう一方が中学校教員というケースは多くはなくても、珍しくはありません

私の場合は夫側が担任でした

その教員の担当教科は「理科」
したがって、担任になる以前から授業での接点はありました
また、それまで自分のクラス担任ではありませんでしたが、同じ学年の他のクラスの担任だったので、理科の授業以外でも多少の関わりはありました

ハッキリ言って、もともと嫌いな教員でした
なので、担任の発表があった時は非常に嫌でした

その担任は、朝から異常な位にピリビリとしていたりする日がよくありました
理不尽に明後日な方向の話題から生徒を叱責
まるで生徒に当たり散らして発散しているのでは?と思わせるような人物
生徒の方が顔色を窺わなくてはならないような教員でした

例えば出勤前に自宅で夫婦喧嘩でもしたんだろうな?というようなことが生徒側が想像できてしまう
いえ、想像したり、斟酌しなければならないような人でした

ご存命ならば70代半ばでしょう

これは全ての教員に対する批判ではありません

子供の数に対して教員不足だった第二次大戦終結から高度経済成長期(おおむね1950年代から1970年代)
教員の採用枠は急増し、教員の志願者のほとんどが容易に就職できた時代がありました

なので、時代的に「でもしか先生」と称される人が多く生産・生息した時代の教育現場です

私の担任の教員は、どのような志で教育者という職に就くこととしたのかは知りませんが、そんな時代の話です

これは士業や代議士に共通なことでもあります
何の社会人経験もないまま周囲から「先生」と呼ばれる

教員の人間的な未熟さは、対峙する側の、児童・生徒・学生が「空気を読んであげる」
それも相手の立場に立つという大切な「教え」かもしれませんけれどね(^^;

■ちょっとだけファミリーヒストリー

私の母方の祖父は、高校の数学と物理を担当教科とする教員でした
そして優秀だったそう
早々に順調に昇進を果たして、当時の「最年少校長」ということで、双六の上がりをされた方です
(ちなみに、最年少の裏付けは、単なる周囲の話で、本人の弁でもありません)

我が家は、父方母方の両方と疎遠でした
母方に関しては、それまでの母と実家の関係もあったのでしょう
さらに、父母の結婚で何らかのことがあったようで、父が交通事故で亡くなるまでは、母方の祖父母は既に他界していると聞かされて育ちました

なので、幼少期に何の接点も無かった人々と急に私は小学校6年生で、対面
そうなると、関係性はなかなか寒々しいもの(笑)

あとね、子供の私からしたら、大人が何の説明もしないのが納得いかないんですよね
からしたら、自分の父親が亡くなった途端に連絡してきた母方の血縁者ですから

したがって、あまり会話を交わしたことも面識も多くはありません
そんな数少ない交流では、ちゃんと本人の口から得た情報など何もありません

主に、母からの話になるので真偽は不明ですが、聞くところによれば
北海道のごく小さな町の町長の長男として生まれ、坊ちゃんは成績が優秀だったそう
いわゆる「神童」という類の人でしょうね
特に、物理が好きで、本当は「研究者」になりたかったんだとか
そうして東京理科大に進学するも、井の中の蛙だったことを思い知らされる
自分程度の能力ではとてもじゃないが、研究者にはなれない
でも、大好きな数学や物理のことは個人的探究として勉強と研究を続けたい

そこで、選んだ仕事が高校教員だったそう

高校の教員であれば、教科指導だけで済み、他の時間は自分の好きな数学や物理に向き合っていける
なので、最初は「教える」ことも通り一遍で教科書を説明するだけ
でも、そのうち生徒と対峙する間に教科の教鞭をとることにやりがいを感じるように

なので、本人は、教科の教鞭をとることが好きで、昇進は望んでいなかったんだとか
でも外圧によって望まず偉くなってしまったそう(^^;

ご本人は、いつまでも現場の教育で受験生を希望の大学合格に導き、これからの人達の夢の手助けをし続けたかったみたいです

まぁ、時代背景的な、大学進学率やら教員の地位なども勘案すると、生徒がより良い大学に進学すれば教員の功名たるや、それは何おか言わんやでしょうしね(笑)

母は、周囲から「先生、先生」と言われる、教員の中でも優秀なそんな私の祖父を見て育ちました

母は戦中・戦後に誕生した世代です
「先生の言う事は絶対に正しい」
「教職とは聖職」
という「先生様様」な時代の人です

なので、教員という職業の人に対して複雑な感情を持っていたのだと思います

他の教員からも敬われ、尊敬に値する祖父
相反して家庭の中では、時に祖母に詰められる祖父
(別な機会に綴りますが、祖母はなかなかな毒成分の高い人)
そんな人を身近に見続ける

「教員の家」ということで周囲の目という世間体を気にする祖母
子供に対する教育も、教員の子供らしく成績も生活態度も良い子供として律して厳しく

まぁ、もし感受性が乏しい子であっても、なかなか生きづらかっただろうなぁと、その辺りは想像に難くないですね

母の実家は北海道なのですが、祖父母は長女である母に「北海道大学」以外の進学を認めなかったそうです
じぃさん東京理科大なのに、娘には旧帝大以外は受験もさせないとか、なかなか鬼です(笑)

その時代はそういう家は珍しくはなかったのかもしれません
それでも、その1つのエピソードだけでも、祖父母もなかなかな毒親だったのだろうと

■母子家庭の子は悲壮感がなきゃダメなの?■

それは私の中学3年生の時の三者面談の時でした

担任は、何を思ったのか、何の意図があったのか、私と横並びで対面で座る母に対して

「〇〇〇さん(←私の名前)は、母子家庭の子なのに悲壮感が足りないんですよね」

と言いました

ん?いったい何を言っているのか、まずは意味不明

担任は、自身の生家はあまり裕福ではなかったようで、そのような話も度々ホームルームでしていました

そこからいわゆる自身の苦労話と、親孝行を生徒へ促す講和という流れでした

そんな担任先生様からしたら「片親の子」「母子家庭の子」の定義像があるんでしょう
それと私が違っていると

しかし、だから何?というところなんですけれどね

頭が「???」の私の隣に鎮座する毒母
彼女にはそのヒトコトは、私とは全く違うように届いたようでした

私には、母が不機嫌なのが空気感で伝わりました

教室と学校を母と共に後にして開口一番

「あれは、どういうこと?」
と母が私の方に向いて言いました

その「どういうこと?」という怒りは2通りの意味がありました

まず、担任に対して
「何も解っていない他人に、そんなことを言われる筋合いはない」
そして私に
「なんでそんなことを言われるような学校生活態度なのか」

でも「恥をかかされた」と思っている母
彼女にとったら「私がいけない」ということなんですよね

全責任は、娘の私にある
娘のせいで自分は娘の担任から恥をかかされた

そういうことなんですよね

私はいつものように「母の納得いく答え」を探す
ですが、担任の主観による私に対する悲壮感の有無に理由などある訳がない
かつ、もし理由が存在したとて、だから何?案件なだけ

結局、私はひたすら母の怒りを鎮めるために謝罪をするだけでした

なんで謝っているのかなんて解らない

ただ、それは私の家では通常運転でしたから、ひたすら謝りました

私の謝罪の間、母が私へぶつける発言
それらは私の魂を引っこ抜いて、感情をバカにしてしまう、私を人形にさせるようなものばかり
それも、いつものこと

「きっと、この人の前で今私が飛び降りたり、頸動脈を切って死んだら、この人は満足なんだろうなぁ」

なんて、私を叱責する母を見て思いながら、ひたすら謝罪をする

■まさに「おしえて先生!!」■

この件については、私にとっては疑問がありすぎ
なんなら疑問でしかない、担任と毒母という大人達による、中学3年生の私に対する言動

別に今更の弁明は不要ではあります
ただ、私のために弁明させて頂きます!!(笑)

私はその地域において中途半端な進学校に行けるほどの成績ではあったので中学の成績は良い方でした

風紀や生活指導的なことでも母が個別に学校に呼ばれたりなんてことは一度もない、時々廊下を走ったりして注意を受けたりする程度の、ごく普通の子です

あとね、あの時代の地方のちっぽけな街なんて「片親」って多くないんですよ
我が家のような死別であっても、すっごく少ない

かつ、我が家の実態を考えたら、努めて明るく振る舞うのは私にとっては物凄い努力の薫物だったんですけれどね

「母子家庭なのに悲壮感が感じられない」

これは、本来私自身にとっては、最大の誉め言葉になるものだったんですけれどね

なんかね、先生も親も違っていたみたい
悲壮感漂わせない軽い感じの方が周囲にも心配かけないかなぁって思っていたのに

母子家庭の子供は見るからに周囲が辛くなるような悲壮感が漂ってなくてはいけないんですか?

おしえて、先生!!(笑)