心は見るだけじゃなく観ることと視ることが大事

精神疾患は不治の病■

昔々から「不治の病」というものが存在します
不治の病ときくと、相当、難しく重い病のイメージがありますし、実際そのとおりです
そして不治なので、その病が原因となり亡くなる可能性が高いものです

私は、精神疾患もそれに該当するのではないかと思っています
私見ではありますが、この記事の前にも、精神疾患と医療について綴っています
私自身も過去に精神疾患に罹患し、通院と投薬による治療を受けた経験があります

そしてメンタル系の医療に全くお世話になることなく生活をして10年超になります
ただ、私は完全に治っているとは私自身のことを全く思っていません
度々「これはやばいぞ」という前兆を感じる場面に直面しています

常に種子を抱えながらの生活です
それが芽吹かないように自身で制御しながらの生活です

精神科医はまったくもって正しいことを言っている■

多くの精神疾患の罹患者も次のような場面の経験があるかと思います

1.どうも調子が今までとは違うと、漠然とした病識が生まれる
2.ネットや書籍で症状を照らし合わせると、何らかの精神疾患のようだ
3.自身では病識がなかったとしても、異変を感じ取った周囲からの勧め等でメンタルクリニックを受診
4.担当した医師は言います「環境を変えれば、改善するきっかけになるかと」

もうね、愕然ですよね(笑)
「あんたバカですか?」
それが出来ていれば、こうなってないよ
できない事情があるから、こうなっちまったんだってばさ!
なのに、そんな当たり前のことを言いやがって、鼻ほじかっ!!

メンタルクリニックあるあるですよね

そして「お薬出しておきますね」というところまでが一連の流れ(笑)

精神疾患の多くは人間関係が原因で罹患します

私は前兆を感じると、我慢しないことで対処しています

「我慢しない」とは、必ずしも気持ちを誰かに吐露することとは限りません

吐露してスッキリする場合もあります
ですが、口に出すというのは、また、そのことを思い出すことでもあります
それはもう一度、不快な思いを反芻する行為です
また、誰かに吐露をして状況が変わる事象であれば良いのですが、変わらないのであれば他者への吐露はむしろ精神衛生上良い行動ではありません
それどころか「言っても変わらない」とさらに我慢を重ねるだけになってしまいます

そういう場合の「我慢しない」は簡単です
「無責任になって投げてしまう」「関係を絶ち切ってしまう」ということです

結論としては、精神科医の「環境を変えれば、改善するきっかけになるかと」なんですよね(笑)

■人のつながりなんて偶然で一過性■

確かに、自分に解決できないようなレベルの問題はふりかかってこないのは事実です

なので、自分の元に全てを引き取る前に「できる方法」を模索するという検討は必須
そして、結局最後には「努力+忍耐+根性」が不可欠ではあったとて、自身が何をどこまでならできるのかの線引きの位置を明確にする

これは、絶対にしなくてはならないことです

最初から何もせずに投げてしまうと、誰かを精神疾患に罹患させる原因の人物、エネミー側の人になってしまいます
「逃げる人」「丸投げなのにいっちょかみの人」「おいしいどころ取りの人」です

もし自身の周りにエネミーがいたら、有無を言わせず関係を断ち切るべしです

ママ友等であれば、無理に関係を続けなければ良い

上司であれば依頼してくる仕事を「出来ません」と言えば良い

その行動によって、さらに何か別な方向に追い込まれることがあれば、また策を講じれば良いだけです

むしろ関係を絶ち切らずに継続し続ければ、エネミーは天井知らずに増長してくるばかり
エネミーは浸食して、こちらがボロボロになるまで貪ります

ママ友も上司も一生付き合っていく相手じゃありません

たまたま巡り合わせた、同じ電車の車両に乗り合わせただけの人
嫌だったら、車両を変える
それでもダメなら、途中下車をする
その際に、周囲の人や乗務員や職員に助けを求めたりすれば良い

それにより、転居や退職ということになってしまっても、その選択を「負の選択」と思わないことだと思います

選択肢に優劣はありません
いずれも並列で、単なる選択肢なだけです
選んだ時に何をするか?何が生じるか?それが選択肢によって変わるだけ

そして、そんな偶然に一過性でかかわることとなってしまったエネミーを、とっとと忘れることだと思います

■責任感の強さは美徳ではない■

責任感の強い人の場合、自分一人で抱え込む思考です
また、業務を依頼されたこと自体に気概のようなものを感じてしまいます

「必要とされているのはありがたい」「その思いを決して裏切らずに結果を出さなくては」と思うわけです

結果、自身に何らかの問題解決が降りかかってきた時に、最初に自分の元に全てを引き取ってしまう

そして全力かつ猪突猛進で真摯に対峙
都度、自身の許容の器の体積を広げながら解決にむけてひたすら進んでいきます

その根底にあるのは「他者の目」「他者の評価」「他者の気持ちの斟酌や共感」です

そもそも、降りかかってきているのは自分に解決できるレベルの問題
なので、他の人にも解決できない訳がないのも事実
他者の目を気にしてしまい、最初から自分の元に全てを引き取る必要などありません

万人に承認欲求は存在します
したがって、他者の評価は気になります

でも、限定的な問題解決という業務に関しての評価ならば、それは自分の全てに対する評価ではありません

そして、他者の気持ちの斟酌や共感は大切ですが、それでいっぱいになってしまったら動けなくなってしまいます

実際、他者のことを最後まで責任持てますか?
絶対に無理ですよね
なので、基準を他者にしないでください

他者ではなく自分に目を向けて下さい
自分に降りかかってきている問題だからこそ、基準はあくまでも自分です

■医師は診られても看るのは結局自分■

人の痛みの痛覚点は体の表面から浅い部分には多く点在しています
案外、ザックリと深い傷の方が擦り傷よりも痛みが少ないことがありませんか?

ですが出血量やその後の感染症の懸念を考えると、明らかに傷が深い方が危険です

心の傷も同様で、深い傷ほど危険

ただ、心の傷は外傷とは違い状態の深度が解りづらいものです
患者からの聞き取りによって医師は判断をしますが、その際に正しく伝わらなくては、最悪な結果を生みかねません

また、処方薬の服薬による治療にしても、その罹患した心と向き合い看ていくのは患者本人以外にはいません

内観して自身の心を正しく、医師にも正しく伝えられません
正しく伝えられない状態になってからでは遅い場合があります

医師はツールなだけです

自身に合ったツールを見つけること
また、ツールを最適に活用できるようにすること

そのためには、自分をよく見つめることでしょう
単に、見るだけではなく観ることと視ることが大事ですよね

そして、それが行えるだけの余白は必ず自身の心に残しておかないといけません

他者はどれだけ相互に寄り添おうとも結局、自分ではありません